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2014年7月14日 (月)

品野街道

品野街道は大昌山 寶泉寺(ほうせんじ)の裏面から
瀬戸川の南北両岸に沿って、登り下りの一方通行の248号線となっている
南岸側の248号線に出るが、この道は進行方向とは逆の西に向っているので、
一旦,90m近く下流に下って、
橋名表記の無い鉄製欄干を持つ橋を北岸に渡り、瀬戸川沿いを西に向った。
その248号線も300m未満で北に向って蛇行してゆく瀬戸川と離れ、
上り下り線が合体する。
その248号線となっている品野街道はそこから北東に向う。
上り下り線が合体した場所から登り坂となっている品野街道を
700m近く走ると、東側の路肩に地蔵尊と銅板葺の祠があった。


そこはちょっとした空き地になっていて、
その北端に祭祀物や石像物が集まっていたので、
その反対車線の空き地に愛車を乗り入れた。
南向きの祠は竹垣で囲まれており、
入口脇に「津島神社」と刻まれた社号標が立てられている。
ここは五位塚町(ごいづかちょう) だが、品野街道、6社目の天王社となる。
そこで、地蔵尊は津島神社とは別けられて、
竹垣外に品野街道の方(西)を向いて祀られていた。
「五位塚」だが、『地名語源事典』によれば、奈良時代には
官位によってその法人(もとは建物の呼称ではなかった)を
以下のように呼んでいたと言う。

三位以上=家
四・五位=宅
六位以下=館
  庶民=戸

「五位塚」とは文字通り、
五位(貴族)の人物の関る塚が存在した可能性のある地である。
ところで、最低限のスペースしかない津島神社の本殿は
大きな1枚岩の基壇の上に祀られているのだが、
社の中に収められた本殿は定形外の横長の開口部とむくり屋根を持ち、
社とともに紅白に塗り分けられていた(写真左)。
このあたりに神仏習合の牛頭天王の痕跡が感じられるのだが、
社の開口部はアルミサッシでワイヤーの入った厚いガラスがはまっていた。
鍵が掛っていなかったので、開けて撮影させてもらったが、
純白の榊立や燭台(?)が紅塗りの本殿に映えている。
南向きの本殿の左手前には
品野街道に背を向けた「水神・辨財天」板碑が祀られていた(写真中)。
周辺に水路でもあるのかと地図でチェックすると、
なんと、ここは
瀬戸川の支流、紺屋田川(こんやだがわ)の西脇に位置していた。
300mほど下流で品野街道と離れて北に向った瀬戸川は
紺屋田川との合流点から上流では古瀬戸川と呼ばれ、
暗渠となって248号線(品野街道)をくぐって、
東側にある馬ヶ城貯水池から流れ出している。
貯水池に城名が付いているが、馬ヶ城の情報は見当たらない。
ここから270mほど下流で248号線を縫って、東側に現れた紺屋田川は、
ここ津島神社の30mほど上流で40mほどの暗渠となって
ふたたび248号線の地下をくぐり、248号線と付かず離れずしながら、
いっしょに北の上流に向っている。
旧街道が同じ川とたびたび交差していたはずはないから、
品野街道は津島神社北の紺屋田交差点の三叉路から、248号線とは左に別れ、
紺屋田川沿いに北に向い、1kmほど北で
ふたたび248号線に吸収されていたようだ。
そのあたりで水源のはっきりしない紺屋田川は消滅している。
津島神社の前には紺屋田川を渡って五位塚町の住宅街に向う脇道があるので、
その脇道を徒歩で紺屋田川を観に向うと、
品野街道から15m以内に全長5m以内の橋名の無い橋が架かっていた。
橋上から紺屋田川の上流を見下ろすと、
護岸工事のされていない5mほどの深さの谷川で、
水深20cmほどの河床には自然石が散らばり、
両側の土手は低木の灌木で覆われていた。
下流側を橋から見下ろすと、橋のすぐ下流にちょっとした滝があり、
滝の下から8m以上の深さの渓谷が始まっていた(写真右)。
「紺屋田」という河川名は何らかの形で藍染めと関係がありそうだ。

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